2009年07月06日

でーじなんぎした話

 「頭フラフラ病」が久しぶりに来ました。「頭フラフラ病」はここ数年悩まされている病気で、目眩と頭痛が長い時で2〜3週間、短い時で4〜5日続くというもの。旅行中や仕事で疲れている時に発病するので、どうやらかなり疲れが溜まっている模様。まぁここ3週間ほどは仕事も酒もかなりハードだったんでね。ちなみに、今日の気温は32℃。この暑さの中、頭フラフラで働くのはキツかったです。

 さて昨日は2週間ぶりの休みだったので名護に行って新しい携帯を買ってきました。名護まではフェリーとバスを乗り継いで1時間ほど。日曜だったので本島に遊びや買い物に行く人たちで船は一杯でした。

 プリペイドからの変更は新規扱いになるらしいのでたぶん印鑑がいる。ということで、まず名護に着いてすぐに文房具屋で印鑑を探したんですが、「高橋」という印鑑がない!いやぁ、一応日本で三番目に多い名字なんですけどねぇ・・・。その代わり瑞慶覧(ずけらん)とか喜屋武(きゃん)とか阿波根(あはごん)といった沖縄特有の名字はどこの店にもありましたが。くそ暑い中を探し回って4軒目でやっと高橋を発見。それを持ってソフトバンクショップに行ったのですが、クレジットカード払いにすれば印鑑は不要でした。先に言ってくれよ・・・。

 ちなみに、せっかく買ってきた携帯ですが私が住んでいる倉庫では常に圏外になってしまい、100mぐらい離れたところに行かないと使えません。前のは第二世代の携帯だったのでここでも電波が入ったようですが、第三世代はダメな模様。せっかく苦労して買ったのに・・・。

 つか、長野の山で遭難した人が携帯で救助を要請するような時代でしょ。普通に人が住んでいるところで電波が入らないってどうなん?

P.S.
 前の携帯と番号・メアドは変わってません。ご用のある方はじゃんじゃん電話をかけてきて下さい。ただし、繋がる可能性は低いですけど。
posted by Tets at 20:47| Comment(1) | TrackBack(0) | 沖縄・伊江島編2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

眠れない・・・

 伊江島に来て以来ずっと快眠だったのにここ数日はあまり眠れない。伊江島での仕事が終わりを迎えようとしている。これから先の予定は何も決まっていない。やりたいことはある。行きたいところもある。でも、金がない。今の全財産は20万円。29歳のいい歳した男の全財産が20万。情けない。

 今日、名護の本屋で西原理恵子の「この世でいちばん大事なカネの話」を立ち読みした。「金があって初めて自由が手に入る」って感じのいかにもサイバラらしい一文があった。

 それを読んだ後に行った古本屋で鴨ちゃん(鴨志田穣)の「アジアパー伝」を見つけたので購入して久しぶりに読み直した。誰よりもバカで優しくて繊細で傷つきやすくて、それでも自分と向き合おうとしていた鴨ちゃんのことを考えた。

 かつてジャニス・ジョップリンは「自由とは何も失うものがないということ」と歌って逝った。いつの間にか私はジャニスが死んだ歳を越えている・・・。
posted by Tets at 01:40| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月03日

おじぃ

おじぃはかっこいい

今年で78歳になるが今でも畑に出る

下はジーパンで上はデニムのシャツ

それにくばがさというのがおじぃの仕事着

ジーパンが似合う78歳ってなかなかいないと思う


島の人はみな「若い頃のおじぃはでーじハンサムだったよ」と言う

「本当ね?」と同級生だったおばぁに訊くといつも同じ答え

「そんなことなかったよ。小学校の頃はとても背が小さかったさ」

おばぁ、小学校の頃の話じゃないよ

おばぁは絶対に照れている


米軍が伊江島に上陸した時おじぃは14歳だった

本島に疎開した人も多かったがおじぃの一家は島に残った

おじぃは当時のことをあまり語らない

たぶんどこかのガマに隠れていたのだろう

島民の三分の一が亡くなったという激戦を

おじぃの一家は生き延びた


島が米軍に占領された後、島民は収容所に入れられた

その後全員が慶良間諸島の収容所に送られた

戦争が終わって2年後にやっと伊江島への帰還が許された

島に戻って生活を再建しようとした矢先

あの事故が起こった


1948年8月6日、不発弾を満載した米軍の船が港で大爆発を起こした

ちょうど本島からの連絡船が港に着いたばかりだった

爆発に巻き込まれて乗客や出迎えの人など計102名が亡くなった

死者の中におじぃの兄弟全員と親戚の多くが含まれていた


生き残ったのはその場にいなかったおじぃとおじぃの父親だけ

せっかくあの戦争を生き延びたのにたった2人だけになってしまった

事故を起こした米軍からは何の補償もなかった


あの日からおじぃは一生懸命に生きてきた

小学校の同級生だったおばあと結婚

おばあとの間には7人の子供ができた

家族を養うため内地へ出稼ぎにも行った

島に戻ってからはたばこを作り牛を飼って家族を養った

子供たちはみな元気に育った

今では孫やひ孫もたくさんできた

たった二人きりだった家族はまたこんなに大きくなった


おじぃは今日もジーパンをはいてたばこ畑に出る

「おじぃ、昨日のゲートボール大会どうだったね?」と訊いたら

「負けたよ、ハッハッハッ」と笑う

「おじぃ、今度マイ(貝の一種)採り連れて行ってよ」と言っても

「アレを採るのは難しいよ、アッハッハー」と笑う


おじぃはいつも笑っている

たぶんとっても幸せなんだろう

posted by Tets at 19:56| Comment(2) | TrackBack(0) | 沖縄・伊江島編2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月26日

アバサー

 この前伊江島のスナックに行ったら、酔っぱらったホステスのおばちゃん(51歳で4人の子持ち)に絡まれてしまい、おばちゃんの身の上話と子供自慢を延々と聞かされたTets29歳です。別のスナックでは何故か40過ぎのおばさんに気に入られてるし、もしかしてオレってマダムキラー?

 冗談はさておき、たばこの収穫がピークに来てます。あと1週間〜10日、遅くとも2週間後には仕事が終わるでしょう。最近はずっと忙しかったのですが、今日の午後は雨が降ったし、たばこの乾燥機もフル稼働で空きがないので休み。大雨が降り雷が鳴る中、海に行ってきました。今年初のリーフ潜りでしたが、沖のリーフまで泳いで行くのに体力を使い果たした上に、寒くて長時間泳いでいられませんでした。ということで、獲物はこんだけ。

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 サザエ8個にアバサー(ハリセンボン)2匹(写真に写ってるのは1匹だけ)。少なすぎて恥ずかしいです。去年ここで泳いだ時はシャコ貝の大きいのがいたんですけど今日は見つけられませんでした。

 アバサーはアバサー汁にして食べたのですが、口の中の寄生虫を取るのを忘れてました。食べる時に発見して一気に食欲がなくなっちゃいました。アバサーにはかなりの確率で寄生虫がいるんですよねぇ。

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 ここ10日ぐらいで飲んだ島酒(泡盛)の空き瓶。この他にビールを4ケースぐらい。って、全部私一人で飲んだわけじゃないですよ〜。なんて書いてたらまた一升瓶が空になりました。また明日酒買いに行かなきゃ。

 ちなみに、アバサーとは「おしゃべり」という意味。ハリセンボンを陸に揚げると口をパクパクさせることから付いたんでしょうね。
posted by Tets at 22:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄・伊江島編2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

美ら島の現実

 前回に引き続き政治ネタです。政治ネタうぜぇって方は・・・以下同文

 慰霊の日の翌日に島の西の米軍基地の近くにあるにある畑で収穫をしていた。私たちが畑にいた間中、基地の上空を米軍のヘリが飛び交いパラシュート兵の降下訓練が行われていた。64年前に多くの人が亡くなった島で、余所の国の軍隊が余所の国で人を殺すための訓練をしている。怒りを通り越して、言いようのない悲しみだけが残った。

 かつて伊江島では熱烈な反基地闘争が繰り広げられた。しかし、反戦地主として有名だった阿波根昌鴻氏も今は亡く、今の島の人たちの基地に対する反応は冷めている。その理由は米軍基地があることに対する見返りの大きさだ。今から約20年、国頭村の住民の反対で建設中止になったハリアーパッドを伊江島は受け入れた。その時の国からの見返りは58億円の特別補助。1996年にパラシュート降下訓練の読谷村からの移転を受け入れた時もかなりの予算が付いたはずだ。今でも村の歳入の35%前後が基地関係の収入だ。農業以外に特に産業のない離島には基地関連の収入があるかないかは死活問題だ。伊江島が余所の自治体とは合併せずに、沖縄でも数少ない一島一村を守っていられるのも基地があるお陰だ。

 昔ほどではないにせよ、基地関連の収入のお陰で伊江島は今も建設業が盛んだ。人口5000人弱の小さな島なのに建設会社が6〜7社はある(もっとあるかも)。地下ダムというどう考えても必要のない巨大プロジェクトも進行中。かつては白い砂が埋め尽くしていたビーチに不必要な護岸工事を施し、そのために砂が流出し砂浜は消え、リーフの内のサンゴは死滅した。

 でも、公共工事の存在意義を完全には否定できない辛さもある。島には中学校までしかないので、若者のほとんどは島を出る。島には仕事がないので帰ってくる若者は少ない。数少ない仕事の一つが建設会社。島に残っている若者で建設会社で働いている人は多い。基地関係の予算がなくなり公共事業がなくなると島に残る若者の数も激減するだろう。

 また、自治体レベルの限らず、個人レベルの見返りも大きい。基地に使用されている土地を所有している人には土地使用料が払われる。実際の値段は知らないが、農地として他の人に貸すよりも遙かに高い額であることは確かだ。前述のパラシュート降下訓練の移転の際にも、伊江島には「訓練の受け入れか基地の全面撤退か(=土地使用料がなくなる)」の選択を迫られ、伊江島の地主会(阿波根氏は不参加)は全会一致で移転に賛成した。基地がなくなるということは収入の激減を意味するから。米軍も日本政府もよく分かっている。

 さらに、伊江島には黙認耕作地が多い。黙認耕作地とは名目上は米軍用地として賃貸されているのだが実際には使用されておらず、地主や地主から借りている人がそこに作物を植えて畑にしている土地のこと。軍用地としての使用料をもらいながら耕作できるし、人に貸せば二重に賃料が入る。はっきり言ってボロもうけ。こういった黙認耕作地を認めて地主の不満を反らそうというのも米軍当局や日本政府の戦略。そりゃ、誰だって金は欲しいからね。

 しかし、問題がある。軍用地のある島の西部に土地を持っている人の多くは西江上という島の中心近くにある字の人たちだが、事故や騒音などの実害を受けるのは基地の近く住む西崎や真謝という字の人たち。彼らの多くは軍用地を持っていないので基地があることによる恩恵は少ない。実際、基地の拡大や訓練の受け入れに積極的なのは基地から遠く離れた島の中心に住む人たちで、基地の近くに住む人たちは反対の人が多い。

 利益を享受する者は安全な所に住み、一部の人たちだけが負担を強いられる。伊江島の問題は内地と沖縄の関係と全く同じ構図であり、沖縄問題の縮図であると言える。

 この美しい島の青い空を我が物顔に飛び回る米軍機を見て憤りを感じるのはナイチャーの私だけ。島の人の多くは実にアッサリしたものだ。冗談ではあるが、「いっそのこと島全部を軍用地にしちゃって、私たちはそのお金で本島に土地を買って移り住めば良いんじゃない」と言っていた人もいた。基地があること、基地があるためにお金をもらえるとこと。それを当然のことと思っている。それが一番悲しい。

[追記]
 現在建設中の地下ダムのために伊江島にある米軍の通信基地は移転をしなければならない。その移転費用は日本が負担する。しかも、不思議なことにその移転費用は防衛省ではなくて農林水産省の予算に計上されている。ん?米軍基地は何のために日本にあるんだ?なんかおかしくないか?
posted by Tets at 00:05| Comment(2) | TrackBack(0) | 沖縄・伊江島編2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月23日

美ら島の悲しみ

警告:政治ネタです。政治ネタうぜぇって方はスルーして下さい。

 ネーネーズの「平和の琉歌」(サザンのカヴァー)を聴きながらこれを書いています。
「平和の琉歌」
作詞・作曲:桑田佳祐

この国が平和だと
誰が決めたの?
人の涙も渇かぬうちに

アメリカの傘の下
夢も見ました
民を見捨てた戦争の果てに

 蒼いお月様が泣いております
 忘れられないこともあります

 愛を植えましょう この島へ
 傷の癒えない 人々へ
 語り継がれてゆくために

この国が平和だと
誰が決めたの?
汚れ我が身の罪ほろぼしに

人として生きるのを
何故に拒むの?
隣り合わせの軍人さんよ

 蒼いお月様が泣いております
 未だ終わらぬ過去があります

 愛を植えましょう この島へ
 歌を忘れぬ 人々へ
 いつか花咲くその日まで
 今日は64回目の慰霊の日。伊江島は沖縄戦の激戦地だった。戦闘に駆り出された人やガマに避難していて投降を拒み集団自決した人たちなど島の人口の1/3に当たる1500人が亡くなった。今も家を建てようとして地面を掘ると人骨が出てくると言う。

 そんな伊江島の35%は現在でも米軍基地。射爆場の他に滑走路やヘリパッド、ハリアーパッドがある。毎日のように爆音をあげてハリアーやヘリが飛来し、兵員輸送機によるパラシュート降下訓練が行われている。夜の10時を過ぎても輸送機が飛び回り離着陸を繰り返すこともある。嘉手納あたりと比べるとかなりマシな方だと思うが、それでも滋賀県の田舎に住む私には考えられない光景だ。

 一面のたばこ畑の中で伊江島の青い空を米軍のヘリやハリアーが爆音を揚げて飛び回るのを見る度に憤りを感じる。ここは一体誰の国なんだ?あの戦争は一体何のためだったんだ?と。

 本土決戦の時間稼ぎのために捨て石とされた沖縄の人たちや、南方で戦死したまま遺骨収集もされずに放置されている人たち、無策な日本政府のせいで苦難の人生を送ったにも関わらず政府からはロクな支援を受けられなかった中国残留孤児やシベリア抑留者、そういう人たちこそが本当の意味で「お国のために身を捧げた人たち」だと私は思う。そういう人たちに対してこの国は一体何をやってきたのだろうか?

 終戦記念日に靖国神社に集まる人たちが敬愛する太田実少将(沖縄戦における海軍の司令官)は自決前に海軍次官宛に送った最後の電文を以下のように結んでいる

「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

 この文の前では沖縄県民がいかに日本軍に協力して勇敢に戦ったかを述べており、大日本帝国LOVEな方たちの間ではかなり有名な電文だが、それが事実かどうかはどうでもいい。強要された集団自決があったかどうかと同じくらいどうでもいいこと。沖縄の人が「日本」という国のために多大な犠牲を払ったこと。それだけは確か。

 そんな沖縄に対して、アメとムチを駆使して基地の負担を押しつけ、自分たちは安全で静かな土地に住み、日米安保が与えてくれる平和を貪っている。これが「特別ノ御高配」なのだろうか?今もこの島の土の中に眠る多くの魂はこの島の現実をどう思っているのだろうか。

[追記]
 前の職場で沖縄の話をした時に20歳の後輩が「えっ?沖縄に米軍の基地があるんですか?」と言ったのにはビックリした。「そりゃあるよ。なんせ戦後27年間アメリカに占領されてたしね」と私が言ったら、「えっ?じゃあ沖縄の人って英語話すんですか?」と言ったのにはもっと驚いたけどね。ヤマトンチュの無知ここに極まりって思った。これじゃダメだともね。

 でも、伊江島の人にこの話をしたら、「じゃあテツ、お前が内地の人にもっと沖縄のことを教えてやってくれよ。僕たちにはできないから。」と言われた。その言葉を思い出しながらこれを書いています。
posted by Tets at 23:33| Comment(4) | TrackBack(0) | 沖縄・伊江島編2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月20日

携帯が壊れてあぎじゃびよ〜

 「あぎじゃびよ〜!」ってのはこっちの人がよく使う言葉で、英語でいうところの「オーマイゴッド!」。何か失敗をした時やビックリした時など幅広く使えます。「あぎじゃ!」という省略版もあり。主に年配の人が使うんですけど、おばちゃんが使うと結構かわいいです。

 ということで携帯が壊れてあぎじゃびよ〜です。電源も入るし動作は問題ないのですが、電波の送受信が全く出来ません。いくら伊江島は電波が悪いとはいえ、島のどこにいても圏外になるのはおかしいです。別に落としたとか水に濡らしたってわけじゃないんですけどねぇ・・・。

 私の持っている第二世代のプリペイド携帯は来年の3月から使えなくなるのでちょうど買い換えようとは思っていたところなんですが、なんせ伊江島に携帯ショップはないので名護までフェリーとバスを乗り継いで行かなければいけません。1日がかりで。あ〜、面倒くせぇ・・・。しかも、たばこの仕事はこれから最後の追い込みで忙しくなるのでしばらく休みがないかも。困ったなぁ・・・。

 さて、昨日の午後と今日の午前中は「ウイミ」でした。「ウイミ」は本島北部では「ウユミ」と呼ばれ、漢字にすると「折目」。似たような行事は沖縄の他の地域にもあるけど伊江島のは時期も違うし内容も独特。伊江島では畑に入ってはいけない日で(青い葉っぱを取ってはいけないということらしい)、農家は休みにするところが多いです。でも、倉庫内での作業はOKなので、休まないところもありますけど。うちも今日の午前中は倉庫で乾燥したたばこの葉の選別作業をやってました。

 このウイミの日取りはヌルが決めます。ヌルは祭事を司る世襲の女性神官で本島では「ノロ」と呼ばれ、学術的には「祝女」と訳されるそうです。もともとは旧暦の5月25日のはずだけど、近年では役場の意向もあって25日近辺の週末に重なるようにしているみたいです。村の防災無線で「今年のウイミは○月○日です」と放送されたりと、ウイミもだいぶ現代化されてきていますが(島の人曰く「ヌルが役場の言いなりになっている」)、まだその習慣を守っている農家は多いです。たまに無視して畑に出ている人もいますけどね。実際、昨日の午後、島をドライブしていたら、畑で働いているたばこ農家が何軒かいました。まぁ今が一番忙しい時期なので休んでられないんでしょうけど。

 ということで、例によって最近食べたものの写真。

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 今年初のナーベラ(ヘチマ)。私が育ているやつじゃなくてもらい物ですが。

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 ある日の昼食。ナーベランブシー(ヘチマのみそ炒め)とシャコ貝の味噌汁、夜光貝の炊き込みご飯。自分で買ったのは米とポーク(ランチョンミート)ぐらいのもので、他の食材は全てもらいものか自分で採ってきたもの。味噌もうちの農家の奥さんの手作り。

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 フーチャンプルー。麩を卵や野菜と一緒に炒めたもの。数あるチャンプルーの中でも私の大好物。

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 余った名古屋コーチンのモモ肉と骨で作ったカレー。なかなか贅沢な一品。

posted by Tets at 21:18| Comment(2) | TrackBack(0) | 沖縄・伊江島編2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする